お母ちゃん 死んだら あかん!!
2011,01/09(Sun)
幸い、つぼ焼き屋をする場所は、戦前義母から譲り受けていた家(家屋は、
戦争で焼けて仕舞っていたが)40坪程の土地が岡山市内の川の前にあった。
この焼け跡を少し整理して、バラック建ての2坪程の小さな小屋を建てて貰った。
終戦後約、1年半程が経っていた岡山市内は、あちこちで、建設の槌音が・・・。
つぼ焼きに必要な壷も調達し、煙突も付けて貰い、薪や炭やもみ殻や新聞紙等
商売に必要なものを揃え、最後に本命の薩摩芋を かねてよりお願いをしてあった
農家の方に、リヤカーでこの小屋迄運んで戴き、準備万端整ったのは、1月の中頃だった。
此処までの準備を怪我や捻挫を押して母は、1人でやってのけた・・・!!
此の頃は、傷病兵に続き一般兵士の方達もどんどん帰還し、皆 鵜の目鷹の目で、
生きる為に職種を選ばず何でもやった!! 父親のいる家庭は、目覚しく立ち上がり
生活も少しずつ潤って来ていた。しかし、我が家は、頼りの父の生存も不明で
病弱で か細い母の肩に親子3人の生活がずっしりと重く圧し掛かって居たのである!!
戦争で焼けて仕舞っていたが)40坪程の土地が岡山市内の川の前にあった。
この焼け跡を少し整理して、バラック建ての2坪程の小さな小屋を建てて貰った。
終戦後約、1年半程が経っていた岡山市内は、あちこちで、建設の槌音が・・・。
つぼ焼きに必要な壷も調達し、煙突も付けて貰い、薪や炭やもみ殻や新聞紙等
商売に必要なものを揃え、最後に本命の薩摩芋を かねてよりお願いをしてあった
農家の方に、リヤカーでこの小屋迄運んで戴き、準備万端整ったのは、1月の中頃だった。
此処までの準備を怪我や捻挫を押して母は、1人でやってのけた・・・!!
此の頃は、傷病兵に続き一般兵士の方達もどんどん帰還し、皆 鵜の目鷹の目で、
生きる為に職種を選ばず何でもやった!! 父親のいる家庭は、目覚しく立ち上がり
生活も少しずつ潤って来ていた。しかし、我が家は、頼りの父の生存も不明で
病弱で か細い母の肩に親子3人の生活がずっしりと重く圧し掛かって居たのである!!